おかげまいりとは江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣のことで、60年周期(おかげ年と呼ばれる)で起こった。
もともと伊勢神宮は天皇家の氏神であり、民衆と伊勢神宮の距離は大きかった。
『更科日記』でも、貴族社会に属する菅原孝標女ですら天照大神が仏なのか神なのかもわからず、ましてやその神宮の所在地も知らないというくだりがある。
さらに貴族社会の凋落と武家社会の勃興により、伊勢神宮は経済的に困窮し、20年に一度新築することとなっていた慣例も行えないほど荒廃していた。
そこで江戸時代になって、御師(伊勢神宮の世話役)が各地を回り参詣してもらえるようPRを始めた。
御師がツアーコンダクターとなり手取り足取り世話をしたし、お参りを済ませた後には京や大坂などの見物を楽しめた。
このような風潮から、一生に一度はお伊勢さんにお参りしたいものだとまで言われるようになる。
おかげまいりの中には、主人に無断でやってきた子供・妻・奉公人などもいた。
これを抜け参りと呼ぶ。
お伊勢参りをしたいと言い出したら主人はこれを止めてはならないとされていた。
神罰があたるからである。
また主人に無断で旅に出ても、お伊勢参りをしてきた証拠としてお守りやお札などを持ち帰ればおとがめは受けないことになっていた。
抜け参りは着の身着のまま家を出てきた者が多いので、道中の人々がこれに協力した。
これを施行という。
富裕層から城主・藩主までが、銭・飯・笠・杖・草鞋・薬などを配り、宿・風呂まで提供した。
しかしこの施行は善意から出たものではなく、集団が暴徒化するのを防ぐために先手を打っていたにすぎない。
そしていつまでもこのような施行を続けてはいられない。
物資も払底してくる。
そこでだいたい2ヶ月経つと金の切れ目が縁の切れ目、時期を見計らって支配者が施行中止を申渡す。
慶安03年(1650)は江戸時代最初のおかげまいりでは、人々は白装束を着て組ごとに旗を立てて歩いた。
宝永02年(1705)のおかげまいりは、2ヶ月間に330万~370万人が伊勢神宮に参詣した。
享保08年(1723)の参詣者は、太鼓・笛・鼓・三味線をかき鳴らし、異様な衣服を身に着けて囃し立てて歩いた。
明和08年(1771)の参詣者は「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃し立てながら歩いた。
集団ごとに旗を立て出身地や参加者を書いていたが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えた。
お囃子も老若男女がそろって卑猥な言葉を言うようになった。
文政13年(1830)の参詣者にはひしゃくを持つのが流行り、ふんどしまで締めた男装をして囃し歩く女性集団もいた。
門前に捨てられた山と積まれたひしゃくの絵が残っている。
慶応03年(1867)のおかげまいりは最後のおかげまいりで、別名ええじゃないか。
「ええじゃないか、ええじゃないか」と囃しながら、踊り狂った。
明治に変わる前年ですね。
疲れてきたら「ええじゃないか、ええじゃないか」と囃しながら、草鞋のまま泥足のまま他人の家に上がりこみ、勝手に酒を飲み、食事をし、眠る。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
参加者の証言
■着物でも道具でもなんでも良いものがあったら、「これ、くれてもええじゃないか」と言ってなんでも取っていった。
■普段嫌いな奴の家へ行って「ええじゃないか、ええじゃないか」と言いながら畳・建具・道具を壊しまくった。
■米屋に行って「米もらってもええじゃないか」と米を大量に持ち出し、どんどん炊いて配った。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
こんな状態が1年弱続いたのである。
「ええじゃないか」ではもうお伊勢参りは関係なかったようですね。
地元で騒いでいたようだし。
コアな集団は宗教目的、政治目的などのたくらみを持っていたのだろうが、ここまでの人数に膨れ上がると大部分は踊らにゃソンソンとばかりにブームに熱狂しただけであろう。
集団ヒステリーというか集団陶酔というか。
「将軍さんの世になるのか、天子さんの世になるのか、どっちがどっちかわからなかったからみんながあんなに暴れたんだと思う」
打ちこわしでもなく一揆でもなく革命でもない、ええじゃないか。
鬱積したエネルギーを放出した結果、幕藩体制から天皇制への移行はスムーズに行われてしまった。
これはたくらんだ連中の思い通りだったのか否か。
そして民衆にとって良いことだったのか否か。
老若男女が、男が女の、女が男の、老婆が娘の格好をしたり、褌一丁・腰巻一丁の丸裸もあり、グループで忠臣蔵などのコスプレをした者もいたとか。
絵にはキツネのかぶりもの?をした人までいますね。
もともと伊勢神宮は天皇家の氏神であり、民衆と伊勢神宮の距離は大きかった。
『更科日記』でも、貴族社会に属する菅原孝標女ですら天照大神が仏なのか神なのかもわからず、ましてやその神宮の所在地も知らないというくだりがある。
さらに貴族社会の凋落と武家社会の勃興により、伊勢神宮は経済的に困窮し、20年に一度新築することとなっていた慣例も行えないほど荒廃していた。
そこで江戸時代になって、御師(伊勢神宮の世話役)が各地を回り参詣してもらえるようPRを始めた。
御師がツアーコンダクターとなり手取り足取り世話をしたし、お参りを済ませた後には京や大坂などの見物を楽しめた。
このような風潮から、一生に一度はお伊勢さんにお参りしたいものだとまで言われるようになる。
おかげまいりの中には、主人に無断でやってきた子供・妻・奉公人などもいた。
これを抜け参りと呼ぶ。
お伊勢参りをしたいと言い出したら主人はこれを止めてはならないとされていた。
神罰があたるからである。
また主人に無断で旅に出ても、お伊勢参りをしてきた証拠としてお守りやお札などを持ち帰ればおとがめは受けないことになっていた。
抜け参りは着の身着のまま家を出てきた者が多いので、道中の人々がこれに協力した。
これを施行という。
富裕層から城主・藩主までが、銭・飯・笠・杖・草鞋・薬などを配り、宿・風呂まで提供した。
しかしこの施行は善意から出たものではなく、集団が暴徒化するのを防ぐために先手を打っていたにすぎない。
そしていつまでもこのような施行を続けてはいられない。
物資も払底してくる。
そこでだいたい2ヶ月経つと金の切れ目が縁の切れ目、時期を見計らって支配者が施行中止を申渡す。
慶安03年(1650)は江戸時代最初のおかげまいりでは、人々は白装束を着て組ごとに旗を立てて歩いた。
宝永02年(1705)のおかげまいりは、2ヶ月間に330万~370万人が伊勢神宮に参詣した。
享保08年(1723)の参詣者は、太鼓・笛・鼓・三味線をかき鳴らし、異様な衣服を身に着けて囃し立てて歩いた。
明和08年(1771)の参詣者は「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃し立てながら歩いた。
集団ごとに旗を立て出身地や参加者を書いていたが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えた。
お囃子も老若男女がそろって卑猥な言葉を言うようになった。
文政13年(1830)の参詣者にはひしゃくを持つのが流行り、ふんどしまで締めた男装をして囃し歩く女性集団もいた。
門前に捨てられた山と積まれたひしゃくの絵が残っている。
慶応03年(1867)のおかげまいりは最後のおかげまいりで、別名ええじゃないか。
「ええじゃないか、ええじゃないか」と囃しながら、踊り狂った。
明治に変わる前年ですね。
疲れてきたら「ええじゃないか、ええじゃないか」と囃しながら、草鞋のまま泥足のまま他人の家に上がりこみ、勝手に酒を飲み、食事をし、眠る。
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参加者の証言
■着物でも道具でもなんでも良いものがあったら、「これ、くれてもええじゃないか」と言ってなんでも取っていった。
■普段嫌いな奴の家へ行って「ええじゃないか、ええじゃないか」と言いながら畳・建具・道具を壊しまくった。
■米屋に行って「米もらってもええじゃないか」と米を大量に持ち出し、どんどん炊いて配った。
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こんな状態が1年弱続いたのである。
「ええじゃないか」ではもうお伊勢参りは関係なかったようですね。
地元で騒いでいたようだし。
コアな集団は宗教目的、政治目的などのたくらみを持っていたのだろうが、ここまでの人数に膨れ上がると大部分は踊らにゃソンソンとばかりにブームに熱狂しただけであろう。
集団ヒステリーというか集団陶酔というか。
「将軍さんの世になるのか、天子さんの世になるのか、どっちがどっちかわからなかったからみんながあんなに暴れたんだと思う」
打ちこわしでもなく一揆でもなく革命でもない、ええじゃないか。
鬱積したエネルギーを放出した結果、幕藩体制から天皇制への移行はスムーズに行われてしまった。
これはたくらんだ連中の思い通りだったのか否か。
そして民衆にとって良いことだったのか否か。
老若男女が、男が女の、女が男の、老婆が娘の格好をしたり、褌一丁・腰巻一丁の丸裸もあり、グループで忠臣蔵などのコスプレをした者もいたとか。
絵にはキツネのかぶりもの?をした人までいますね。
断髪
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作家 三宅艶子
私の記憶では、断髪のハシリは大橋房子さん。
青山学院を卒業してフランスに行っていた大橋さんは魅惑的な女性だった。
私にとってささきさんは、パリの匂いやシックという言葉を知るもとになった憧れの人だった。
しかしモダンガールというレッテルを貼るには少し大人だったせいか、それほど道端でからかわれなかったかもしれない。
もう少しお転婆娘っぽい方が、「モガ」という揶揄の相手だった。
私が入った学校は男女共学だった。
文化学院には制服がなかった。
学生らしく質素で清楚な美しい服装を自由に身につけるようにとのことだった。
大変質実なことであったが、セーラー服かジャンパースカートという制服姿を見慣れた眼には派手なものに見えたのだろう。
すぐ「モダンガール」と呼ばれるようになった。
文化学院の生徒は不良の集まりとも言われるようになった。
「文化学院出はお姑さんに嫌われる」とも言われていた。
「あ、モダンガール!」「おーい、モダンガール!」
そんな声がガヤガヤして、やがてみんなの合唱になる。
「モダンガールゥ!」「モダンガールゥ!」
はやし立てるのは、たいてい小学生ぐらいの男の子たち。
時には大人のおじさんも「ちぇ、モダンガール」と憎らしそうに言ったりする。
言われるのは私たち、女学生。
2~3人か4~5人で歩いている時だ。
何でもないことが、たいへん目立つ時代だったのだ。
直接の原因は関東大震災であったろう。
山の手は焼けなかったが、下町はほとんど丸焼けになったから。
古い物が焼けて、新しく再建しなければならなかった。
「帝都復興」という合言葉で、新しい建築が数多くできた。
建物や交通事情が変わると、人々の生活も意識も変わってくる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
望月百合子
私と大橋房子〔ささきふさ〕は、当時日比谷にたった一軒あったフランス人マリー・ルイズの美容院に行くことにした。
マリー・ルイズは私たちの申し出にびっくりして青い目を丸くしたが、やがてサクサクと二人の長い髪の毛を切り落とした。
次は洋服だが、東京には婦人服の店は一軒もなかった。
麹町に大河内という洋服屋があって、頼めば作ってくれると知って、房子はピンク私は白のワンピースを誂えた。
誂えた洋服ができてそれを着て外に出ると、これまた大きな騒ぎ。
二人が並んで銀座を歩くと、ぞろぞろ人が後をついて歩くといった調子で困った。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
望月百合子
<断髪の波紋>
私が断髪にしたのは大正8年のこと。
それは大変な騒ぎを捲起した。
なにしろ黒髪は女の生命と思われていた時代だったからだ。
そのころ東京にただ一軒あったフランス人の美容院で断髪にして外に出ると、道行く人が立ち止まり、振り返り、呆れ、驚きの渦になった。
そのころ私は読売新聞の婦人記者をしていて、取材のため列車に乗った。
すると同席の老婦人が痛ましげに私を見ていたが、「おかわいそうに。二十歳にもおなりでないのに未亡人になられて」と言い出した。
また夏休みに故郷に帰ると、近所の娘が私の真似で断髪にしたと苦情を言われ、そうそうに東京に逃げ帰ったこともあった。
しかしそれから少し後になって、乱髪裾広のズボンの青年の運動が起り、若い女性の断髪もポツポツ現れはじめ、それを新居格がモガ・モボと名づけた。
ここまでになると私の断髪も楽になったが、洋装のはしりでまた一騒動ということになった。
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作家 三宅艶子
私の記憶では、断髪のハシリは大橋房子さん。
青山学院を卒業してフランスに行っていた大橋さんは魅惑的な女性だった。
私にとってささきさんは、パリの匂いやシックという言葉を知るもとになった憧れの人だった。
しかしモダンガールというレッテルを貼るには少し大人だったせいか、それほど道端でからかわれなかったかもしれない。
もう少しお転婆娘っぽい方が、「モガ」という揶揄の相手だった。
私が入った学校は男女共学だった。
文化学院には制服がなかった。
学生らしく質素で清楚な美しい服装を自由に身につけるようにとのことだった。
大変質実なことであったが、セーラー服かジャンパースカートという制服姿を見慣れた眼には派手なものに見えたのだろう。
すぐ「モダンガール」と呼ばれるようになった。
文化学院の生徒は不良の集まりとも言われるようになった。
「文化学院出はお姑さんに嫌われる」とも言われていた。
「あ、モダンガール!」「おーい、モダンガール!」
そんな声がガヤガヤして、やがてみんなの合唱になる。
「モダンガールゥ!」「モダンガールゥ!」
はやし立てるのは、たいてい小学生ぐらいの男の子たち。
時には大人のおじさんも「ちぇ、モダンガール」と憎らしそうに言ったりする。
言われるのは私たち、女学生。
2~3人か4~5人で歩いている時だ。
何でもないことが、たいへん目立つ時代だったのだ。
直接の原因は関東大震災であったろう。
山の手は焼けなかったが、下町はほとんど丸焼けになったから。
古い物が焼けて、新しく再建しなければならなかった。
「帝都復興」という合言葉で、新しい建築が数多くできた。
建物や交通事情が変わると、人々の生活も意識も変わってくる。
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望月百合子
私と大橋房子〔ささきふさ〕は、当時日比谷にたった一軒あったフランス人マリー・ルイズの美容院に行くことにした。
マリー・ルイズは私たちの申し出にびっくりして青い目を丸くしたが、やがてサクサクと二人の長い髪の毛を切り落とした。
次は洋服だが、東京には婦人服の店は一軒もなかった。
麹町に大河内という洋服屋があって、頼めば作ってくれると知って、房子はピンク私は白のワンピースを誂えた。
誂えた洋服ができてそれを着て外に出ると、これまた大きな騒ぎ。
二人が並んで銀座を歩くと、ぞろぞろ人が後をついて歩くといった調子で困った。
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望月百合子
<断髪の波紋>
私が断髪にしたのは大正8年のこと。
それは大変な騒ぎを捲起した。
なにしろ黒髪は女の生命と思われていた時代だったからだ。
そのころ東京にただ一軒あったフランス人の美容院で断髪にして外に出ると、道行く人が立ち止まり、振り返り、呆れ、驚きの渦になった。
そのころ私は読売新聞の婦人記者をしていて、取材のため列車に乗った。
すると同席の老婦人が痛ましげに私を見ていたが、「おかわいそうに。二十歳にもおなりでないのに未亡人になられて」と言い出した。
また夏休みに故郷に帰ると、近所の娘が私の真似で断髪にしたと苦情を言われ、そうそうに東京に逃げ帰ったこともあった。
しかしそれから少し後になって、乱髪裾広のズボンの青年の運動が起り、若い女性の断髪もポツポツ現れはじめ、それを新居格がモガ・モボと名づけた。
ここまでになると私の断髪も楽になったが、洋装のはしりでまた一騒動ということになった。
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明治生まれの芸者の話
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早崎春勇 祇園芸者 明治生まれ
家はお茶屋はんどした。
そこで私は生まれました。
ずっと祇園町で大きなりました。
井の中の蛙どす。
生まれた時、姉ちゃんはもう舞妓はんに出てました。
兄は2人おりましたが、よそへもらわれていかはりました。
「お茶屋に男の子はいらん。この町に置いといたら、男の子は三味線弾きさんか男衆さんや。そんなことではどもならん」
それで親は2人とも手放してしまわはりました。
どこにいやはるのか聞かされたこともおへん。
名前もわからしまへん。
この町では男の子はかわいそうどす。
上の姉が舞妓はんに出てましたさかい、物心ついた時から私も舞妓はんになるもんやと思てました。
尋常小学校を2年で終えまして、女紅場に通いました。
だいたい舞と三味線が主どすけど、修身や読み方・算術やソロバンまで教えてもらいました。
お正月の7日になりますと、女紅場の始業式があります。
舞妓はんも芸妓はんも女紅場の生徒どすさかい、この歳になっても毎年お正月用の黒紋付の正装で出席します。
まあ、言うてみますと、新しい年の出陣式どすなあ。
私が舞妓に出ましたのは11歳の冬どした。
舞妓名は〈美勇〉とつけてもらいました。
御贔屓のお茶屋さんを挨拶に回りました。
三枚重ねの本衣装やさかい、そら重とうおしたわ。
まだほんまに子供どすさかい男衆さんについてもろて、おしっこする時も男衆さんにさしてもらいましたのを覚えてます。
あたしらの頃は、舞妓はんの数は100人ほどいやはりました。
そら厳しおしたえ。
お茶屋はんはよりどりのええのから呼ばはりまっしゃろ。
「えらいかいらしい、ええお妓やな」言うて、ええ妓から段々と呼ばれて売れていかはります。
けどあたしらはそうではおへんので、よっぽど気張らんことには毎日お座敷へ呼んでもらえしまへんどした。
それくらい競争が激しおした。
舞妓はんや芸妓はんを置いたはる屋形には、花順というのがありました。
お花を売らはった順に名前がずらっと並ぶんどすえ。
お家の娘さんとか養女は内娘と言いますが、内娘は売れても売れへんでも1番目。
2番目からが売り上げ順どすわ。
25日が帳簿締めで、「ああ、200勝ってるわ」「いやや、うち100負けてる」てなもんどす。
お客さんも家へ入ってきやはりますと、目につきますさかい気がつかはりますわ。
「○○はん、なかなかきばってはるなあ」てなもんどす。
駆け出しの頃は「はよ2番目に上りたい」と、みな無理してきばりました。
昔の舞妓はんはおぼこいもんどした。
「そっち向いとき」言われたら、「へえ」言うていつまででもそっち向いてました。
私ら舞妓5~6人で、お座敷に寄せてもろたことがおした。
お客さんはお一人で、お目当ての芸妓はんを待ってはるのどす。
芸妓はんがよそに行って帰ってきやはるまで、私らがお客さんのお守りをしてるんどす。
そのお姐さんが帰ってきやはると、お客さんは「おお、来たか来たか」言うてご機嫌よろしおすの。
姐さんが「みんなそっち向いとき」と言わはりましたから、私らは壁の方へくりんと向きました。
お姐さんが「もうええ言うまでこっち向いたらあかんえ」と言わはるので、「へえ」と返事しておとなしゅう待ってました。
こっちゃ向き直したらお客さんも姐さんもえろう機嫌よろしおした。
「みんな言うこと聞いてくれたさかい、かんざし買うたげまっさ」言うて、可愛いかんざし買うてくれはりました。
帰りしな舞妓同士でしゃべってました。
「私ら後ろ向いてる間、何してはったと思う?」
「きっとチューしてはったんやわ」
舞妓時分の楽しかった思い出は、友だちの舞妓との雑魚寝どす。
お茶屋さんにお客さんや舞妓が泊まってもええ時代のことどした。
雑魚寝を楽しみに来てはるお客さんもあの頃はおいやしたえ。
雑魚寝に呼んでいただくのは1人だけやおへん。
2~3人が1組になってました。
雑魚寝の当番が回ってくると、夜更けに電話で連絡があります。
「あんた、今晩当番え」言わはります。
「へえ」と答えて、午前0時ころからお茶屋さんに飛んで行きました。
夜更けから明け方まで〈明かし花〉と言いまして、私らの頃はお花は12本どした。
みんなが寝てはる間に12本もお花がつくのどすさかいね。
それになんと言うても友だちと夜中じゅうしゃべれますのでうれしおした。
午前2時になっても3時になってもわあわあ言うてお話したりして遊びます。
そのうち眠とうなると、みなずらっと並んで寝るのどす。
お布団たんと敷かんならんし、誰かそこの人は当番で起きてんならんし、お茶屋さんは大変なことどすわ。
男衆さんが着替えを持ってきてくれはって、私らは寝巻に着替えて寝ます。
かんざしなんかを抜いて全部自分の箱にしまいます。
男衆さんがその箱と脱いだ着物を屋形へ持って帰ってくれはるのどす。
舞妓はんがしてはるダラリの帯、あれは自分一人では締められしまへん。
時間が経つとガタガタに緩んで崩れてきます。
私らの時分は屋形で着せてもらいました。
女手で締めてもほんの2~3時間のお座敷どすさかい、毎日男衆さんに着せてもらうというような贅沢なことはでけしまへんどした。
今はそんなこと言うてられしまへん。
今の舞妓はんは一日ずっと続けて出はりますさかいねえ。
男衆さんの手が要るんどす。
男衆さんのとこへ衣装持っていって、そこで男衆さんの手でしっかり帯締めてもらわはるのです。
昔は舞妓はんが遠出しやはることは滅多にありまへん。
仮に遠出せんならん時には、男衆さんがついていかはりました。
舞妓はんの格好のまま乗り物に乗るとうようなことはおへんどした。
男衆さんが舞妓はんの衣装を箱に入れて、その荷物を持って御供しやはるのどす。
そしてむこうに着いてから、着物を着せはるのどす。
男衆さんをつけるから、それだけ経費がかかりますわ。
見世出しとか挨拶回りの時にも、男衆さんが必ず一緒についていかはります。
ああいう人がいやはらんと、舞妓はん・芸妓はん・屋形はんは細かいことがでけしまへん。
舞妓はんと旦那はんやお客さんとの間で話がもつれると、男衆さんが中に入って話をつけはるのどす。
そいうことも男衆さんの大事な役目どした。
今の舞妓はん・芸妓はんみたいに、お客さんに着物や帯を作ってもらうということはおへんどした。。
今は着物・帯なんかもご贔屓の方からもらわはりますし、カツラまでもお客さんがこしらえてあげはる。
私らの若い頃はそういうことは滅多になかったことどす。
祇園の髪結さんは昔からえらい権限を持ってはったんどすえ。
大久保はん・長田はん・伊賀はん…。
髪は1回結うてもらいますと5日持つのどす。
たまに4日目あたりにコチョンと根が落ちてしまいまっしゃろ。
髪結さんへ行きますと怒られます。
「何しに来はったん。あんたまだ1日早いえ」と言われるのです。
その日は髪結うてももらえしまへん。
そういうわけで頭がハゲるのどす。
年配の人はたいてい大きいハゲがあります。
私らの頭のハゲ方はお世話になってる髪結さんによって違うんどす。
ハゲに特徴があって、見たらすぐにどこの髪結さんで結うてもろてはるかわかるのどす。
「ああ、これは大久保ハゲや。これは長田ハゲや」とかね。
お月さんみないにハゲてるのは大久保ハゲ、長田ハゲはまん丸、ぐっと前髪が薄うなってはります。
舞妓はんが衿替えしはるとき、サンゴの玉を島田の根元へかけるのが流行りました。
衿替えしててもええ旦那はんやないと、サンゴの玉なんて高いもの買うてもらえしまへん。
そうすると大久保はんは「なんやあんた、サンゴの玉も持たんと。どう頼むか教えたげるさかい、こっちへおいなはい」と言うて、奥の部屋へ連れていかはりました。
旦那はんにそれを買うてもらうコツを教えはるのどす。
「おおきに。お陰さんでサンゴの玉買うてもらいましたえ」とお礼を言うてはるのをよう聞きました。
「見せてんか。良かったな。めでたいめでたい」言いながら、その人の髷にサンゴの玉をかけてはりましたわ。
舞妓のうちは、髪を〈割れしのぶ〉に結うてました。
そのうちお客さんに水揚げしてもらいますと、髷は〈おふく〉に結います。
旦那はんがついて衿替しますと、髷も〈奴〉そして〈先笄〉と変わっていきます。
ぐるりはみな同じですけど、髷の中が違います。
髷が〈おふく〉になるということは水揚げしてもろたということで、みんなにわかってしまいます。
そして髷が〈おふく〉に変わるまでは、赤い衿をかけてたもんどす。
べっぴんさんはええ旦那はんがつきますわねえ。
そうすると髷が変わりまっしゃろ。
こっちはいつまでも割れしのぶが乗ったままどすわ。
先代の春勇さんがさるお方に頼んでくれはって、「人並の身体と違ったらかなんしね。どうもないという印だけ、ちょっと頼まれておくれやすな」
そういう言い方するのです。
それで頼まれはったお方が、私を水揚げしてくれはりました。
「どうもおへん」
「そうどすか、ほなおめでとうございます」ということで、御祝儀持ってお茶屋さんなんかに挨拶に回ります。
それで髪結さんとこへ行って、髪をおふくに結うてもらうのどす。
私は15歳の春どした。
おそい方やったんどすえ。
水揚げしてくれはったお方は、大手の百貨店主さんどした。
髪を結うて帰って来る時、恥ずかしおしたえ。
お茶屋のおかみさんらがハッとこっち見やはって、「いや、あんた、まあおめでとうさん」て言わはりまっしゃろ。
こっとは恥ずかして恥ずかして、顔を真っ赤いけにして屋形に飛んで帰りました。
そういう儀式をせんことには髪をおふくに結えへんのどすわ。
もう今の舞妓はんらは、いつ水揚げしてもらわはったのか、はた目にはわからしまへん。
御祝儀配ったりというような儀式もおへん。
その頃は水揚げばっかり好んでおやりになる旦那はんがいやはりました。
そこそこの歳を過ぎてまだ水揚げの声がかからん舞妓はんは、屋形のご贔屓筋からそういう旦那はんがに話をしてもらいまして、「あの妓ええ歳どすのやけど、どうどっしゃろか」「どんな妓や。見せてみいな」てなことで、なんかの機会にさりげのう見とかはるのどす。
西陣の川田はんと山科の木村はんは、言うてみますと水揚げ専門の旦那はんどした。
都をどりで舞妓はんが両花道をずらっと並ぶ場面がありました。
訳知りのお客さんが大きな声で、「あっちの花道はみな木村はんや。こっちの花道はみな川田はんや」
説明してはるのどす。
おかしおしたえ。
都をどりの切符、受け持つ枚数はびっくりするほどたんとあるのどすえ。
ご贔屓になってるお客さんに10枚とか20枚とか「受け取っておくれやす」言うて割り当ててねえ。
持たされた分はちゃんとこなさんなりまへん。
舞に出てお囃子に出てはったら舞の分とお囃子の分と持たんならんさかいねえ、1人で50枚100枚ではきかしまへん。
私は多い年で800枚超えてました、戦前のことどす。
舞妓してましたのは足かけ5年ほどどす。
5年目の夏に旦那はんに落籍れました。
老舗呉服屋の息子はんどす。
舞妓を落籍はる旦那はんはたいてい年配のお方どしたが、その人は27歳でちょっとええ男はんどした。
月々350円のお手当をもろてました。
その頃の銀行員の初任給が60~70円かそこらやどしたさかい、まあ結構なことどした。
母親と私と女中さんも1人置いてもらいました。
祇園を出てから10年の間に娘が1年おきに3人できまして、家族水入らずで暮らしました。
その頃が一番幸せどしたなあ。
世間が金融不況やいうて、旦那はんのモスリン商売もいかんようになってしまいました。
月々送ってくれはる手当もだんだん少のうなりました。
旦那はんの足も遠のいて、しまいにはぷっつり姿を見せはらんようになってしもたんです。
まあそんなこんなで、私は結局祇園町へ戻ることに決心しました。
古巣へ戻るという段になると、そらどんなに悲しおしたか。
「こんにちは」言うて挨拶しても、「帰ってきやはりましたん、ふうん」てなもんどす。
つらいつらいことどすえ。
姉さんの家で店借りしました。
そこには私の他に4人の芸妓はんがいやはりました。
戻って来た新参者どすさかい、私の名札は5番目にかかりました。
祇園町に帰ってきました時、私は25歳どした。
10年も祇園町から離れていますと、だいぶ世の中変ってますわな。
祇園町を出る時には鼻たらしていた子でも、今は先輩として扱わんならしまへん。
戦争が険しゅうなってきた頃、祇園町も店じまいせんならんようになりました。
全国の芸妓さんが、東条英機さんに無理矢理商売やめさせられたんどす。
昭和18年の秋どした。
私ら「東条さんて見たこともない旦那はんに落籍されて、やめんならんてかなわんわあ」言うてました。
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早崎春勇 祇園芸者 明治生まれ
家はお茶屋はんどした。
そこで私は生まれました。
ずっと祇園町で大きなりました。
井の中の蛙どす。
生まれた時、姉ちゃんはもう舞妓はんに出てました。
兄は2人おりましたが、よそへもらわれていかはりました。
「お茶屋に男の子はいらん。この町に置いといたら、男の子は三味線弾きさんか男衆さんや。そんなことではどもならん」
それで親は2人とも手放してしまわはりました。
どこにいやはるのか聞かされたこともおへん。
名前もわからしまへん。
この町では男の子はかわいそうどす。
上の姉が舞妓はんに出てましたさかい、物心ついた時から私も舞妓はんになるもんやと思てました。
尋常小学校を2年で終えまして、女紅場に通いました。
だいたい舞と三味線が主どすけど、修身や読み方・算術やソロバンまで教えてもらいました。
お正月の7日になりますと、女紅場の始業式があります。
舞妓はんも芸妓はんも女紅場の生徒どすさかい、この歳になっても毎年お正月用の黒紋付の正装で出席します。
まあ、言うてみますと、新しい年の出陣式どすなあ。
私が舞妓に出ましたのは11歳の冬どした。
舞妓名は〈美勇〉とつけてもらいました。
御贔屓のお茶屋さんを挨拶に回りました。
三枚重ねの本衣装やさかい、そら重とうおしたわ。
まだほんまに子供どすさかい男衆さんについてもろて、おしっこする時も男衆さんにさしてもらいましたのを覚えてます。
あたしらの頃は、舞妓はんの数は100人ほどいやはりました。
そら厳しおしたえ。
お茶屋はんはよりどりのええのから呼ばはりまっしゃろ。
「えらいかいらしい、ええお妓やな」言うて、ええ妓から段々と呼ばれて売れていかはります。
けどあたしらはそうではおへんので、よっぽど気張らんことには毎日お座敷へ呼んでもらえしまへんどした。
それくらい競争が激しおした。
舞妓はんや芸妓はんを置いたはる屋形には、花順というのがありました。
お花を売らはった順に名前がずらっと並ぶんどすえ。
お家の娘さんとか養女は内娘と言いますが、内娘は売れても売れへんでも1番目。
2番目からが売り上げ順どすわ。
25日が帳簿締めで、「ああ、200勝ってるわ」「いやや、うち100負けてる」てなもんどす。
お客さんも家へ入ってきやはりますと、目につきますさかい気がつかはりますわ。
「○○はん、なかなかきばってはるなあ」てなもんどす。
駆け出しの頃は「はよ2番目に上りたい」と、みな無理してきばりました。
昔の舞妓はんはおぼこいもんどした。
「そっち向いとき」言われたら、「へえ」言うていつまででもそっち向いてました。
私ら舞妓5~6人で、お座敷に寄せてもろたことがおした。
お客さんはお一人で、お目当ての芸妓はんを待ってはるのどす。
芸妓はんがよそに行って帰ってきやはるまで、私らがお客さんのお守りをしてるんどす。
そのお姐さんが帰ってきやはると、お客さんは「おお、来たか来たか」言うてご機嫌よろしおすの。
姐さんが「みんなそっち向いとき」と言わはりましたから、私らは壁の方へくりんと向きました。
お姐さんが「もうええ言うまでこっち向いたらあかんえ」と言わはるので、「へえ」と返事しておとなしゅう待ってました。
こっちゃ向き直したらお客さんも姐さんもえろう機嫌よろしおした。
「みんな言うこと聞いてくれたさかい、かんざし買うたげまっさ」言うて、可愛いかんざし買うてくれはりました。
帰りしな舞妓同士でしゃべってました。
「私ら後ろ向いてる間、何してはったと思う?」
「きっとチューしてはったんやわ」
舞妓時分の楽しかった思い出は、友だちの舞妓との雑魚寝どす。
お茶屋さんにお客さんや舞妓が泊まってもええ時代のことどした。
雑魚寝を楽しみに来てはるお客さんもあの頃はおいやしたえ。
雑魚寝に呼んでいただくのは1人だけやおへん。
2~3人が1組になってました。
雑魚寝の当番が回ってくると、夜更けに電話で連絡があります。
「あんた、今晩当番え」言わはります。
「へえ」と答えて、午前0時ころからお茶屋さんに飛んで行きました。
夜更けから明け方まで〈明かし花〉と言いまして、私らの頃はお花は12本どした。
みんなが寝てはる間に12本もお花がつくのどすさかいね。
それになんと言うても友だちと夜中じゅうしゃべれますのでうれしおした。
午前2時になっても3時になってもわあわあ言うてお話したりして遊びます。
そのうち眠とうなると、みなずらっと並んで寝るのどす。
お布団たんと敷かんならんし、誰かそこの人は当番で起きてんならんし、お茶屋さんは大変なことどすわ。
男衆さんが着替えを持ってきてくれはって、私らは寝巻に着替えて寝ます。
かんざしなんかを抜いて全部自分の箱にしまいます。
男衆さんがその箱と脱いだ着物を屋形へ持って帰ってくれはるのどす。
舞妓はんがしてはるダラリの帯、あれは自分一人では締められしまへん。
時間が経つとガタガタに緩んで崩れてきます。
私らの時分は屋形で着せてもらいました。
女手で締めてもほんの2~3時間のお座敷どすさかい、毎日男衆さんに着せてもらうというような贅沢なことはでけしまへんどした。
今はそんなこと言うてられしまへん。
今の舞妓はんは一日ずっと続けて出はりますさかいねえ。
男衆さんの手が要るんどす。
男衆さんのとこへ衣装持っていって、そこで男衆さんの手でしっかり帯締めてもらわはるのです。
昔は舞妓はんが遠出しやはることは滅多にありまへん。
仮に遠出せんならん時には、男衆さんがついていかはりました。
舞妓はんの格好のまま乗り物に乗るとうようなことはおへんどした。
男衆さんが舞妓はんの衣装を箱に入れて、その荷物を持って御供しやはるのどす。
そしてむこうに着いてから、着物を着せはるのどす。
男衆さんをつけるから、それだけ経費がかかりますわ。
見世出しとか挨拶回りの時にも、男衆さんが必ず一緒についていかはります。
ああいう人がいやはらんと、舞妓はん・芸妓はん・屋形はんは細かいことがでけしまへん。
舞妓はんと旦那はんやお客さんとの間で話がもつれると、男衆さんが中に入って話をつけはるのどす。
そいうことも男衆さんの大事な役目どした。
今の舞妓はん・芸妓はんみたいに、お客さんに着物や帯を作ってもらうということはおへんどした。。
今は着物・帯なんかもご贔屓の方からもらわはりますし、カツラまでもお客さんがこしらえてあげはる。
私らの若い頃はそういうことは滅多になかったことどす。
祇園の髪結さんは昔からえらい権限を持ってはったんどすえ。
大久保はん・長田はん・伊賀はん…。
髪は1回結うてもらいますと5日持つのどす。
たまに4日目あたりにコチョンと根が落ちてしまいまっしゃろ。
髪結さんへ行きますと怒られます。
「何しに来はったん。あんたまだ1日早いえ」と言われるのです。
その日は髪結うてももらえしまへん。
そういうわけで頭がハゲるのどす。
年配の人はたいてい大きいハゲがあります。
私らの頭のハゲ方はお世話になってる髪結さんによって違うんどす。
ハゲに特徴があって、見たらすぐにどこの髪結さんで結うてもろてはるかわかるのどす。
「ああ、これは大久保ハゲや。これは長田ハゲや」とかね。
お月さんみないにハゲてるのは大久保ハゲ、長田ハゲはまん丸、ぐっと前髪が薄うなってはります。
舞妓はんが衿替えしはるとき、サンゴの玉を島田の根元へかけるのが流行りました。
衿替えしててもええ旦那はんやないと、サンゴの玉なんて高いもの買うてもらえしまへん。
そうすると大久保はんは「なんやあんた、サンゴの玉も持たんと。どう頼むか教えたげるさかい、こっちへおいなはい」と言うて、奥の部屋へ連れていかはりました。
旦那はんにそれを買うてもらうコツを教えはるのどす。
「おおきに。お陰さんでサンゴの玉買うてもらいましたえ」とお礼を言うてはるのをよう聞きました。
「見せてんか。良かったな。めでたいめでたい」言いながら、その人の髷にサンゴの玉をかけてはりましたわ。
舞妓のうちは、髪を〈割れしのぶ〉に結うてました。
そのうちお客さんに水揚げしてもらいますと、髷は〈おふく〉に結います。
旦那はんがついて衿替しますと、髷も〈奴〉そして〈先笄〉と変わっていきます。
ぐるりはみな同じですけど、髷の中が違います。
髷が〈おふく〉になるということは水揚げしてもろたということで、みんなにわかってしまいます。
そして髷が〈おふく〉に変わるまでは、赤い衿をかけてたもんどす。
べっぴんさんはええ旦那はんがつきますわねえ。
そうすると髷が変わりまっしゃろ。
こっちはいつまでも割れしのぶが乗ったままどすわ。
先代の春勇さんがさるお方に頼んでくれはって、「人並の身体と違ったらかなんしね。どうもないという印だけ、ちょっと頼まれておくれやすな」
そういう言い方するのです。
それで頼まれはったお方が、私を水揚げしてくれはりました。
「どうもおへん」
「そうどすか、ほなおめでとうございます」ということで、御祝儀持ってお茶屋さんなんかに挨拶に回ります。
それで髪結さんとこへ行って、髪をおふくに結うてもらうのどす。
私は15歳の春どした。
おそい方やったんどすえ。
水揚げしてくれはったお方は、大手の百貨店主さんどした。
髪を結うて帰って来る時、恥ずかしおしたえ。
お茶屋のおかみさんらがハッとこっち見やはって、「いや、あんた、まあおめでとうさん」て言わはりまっしゃろ。
こっとは恥ずかして恥ずかして、顔を真っ赤いけにして屋形に飛んで帰りました。
そういう儀式をせんことには髪をおふくに結えへんのどすわ。
もう今の舞妓はんらは、いつ水揚げしてもらわはったのか、はた目にはわからしまへん。
御祝儀配ったりというような儀式もおへん。
その頃は水揚げばっかり好んでおやりになる旦那はんがいやはりました。
そこそこの歳を過ぎてまだ水揚げの声がかからん舞妓はんは、屋形のご贔屓筋からそういう旦那はんがに話をしてもらいまして、「あの妓ええ歳どすのやけど、どうどっしゃろか」「どんな妓や。見せてみいな」てなことで、なんかの機会にさりげのう見とかはるのどす。
西陣の川田はんと山科の木村はんは、言うてみますと水揚げ専門の旦那はんどした。
都をどりで舞妓はんが両花道をずらっと並ぶ場面がありました。
訳知りのお客さんが大きな声で、「あっちの花道はみな木村はんや。こっちの花道はみな川田はんや」
説明してはるのどす。
おかしおしたえ。
都をどりの切符、受け持つ枚数はびっくりするほどたんとあるのどすえ。
ご贔屓になってるお客さんに10枚とか20枚とか「受け取っておくれやす」言うて割り当ててねえ。
持たされた分はちゃんとこなさんなりまへん。
舞に出てお囃子に出てはったら舞の分とお囃子の分と持たんならんさかいねえ、1人で50枚100枚ではきかしまへん。
私は多い年で800枚超えてました、戦前のことどす。
舞妓してましたのは足かけ5年ほどどす。
5年目の夏に旦那はんに落籍れました。
老舗呉服屋の息子はんどす。
舞妓を落籍はる旦那はんはたいてい年配のお方どしたが、その人は27歳でちょっとええ男はんどした。
月々350円のお手当をもろてました。
その頃の銀行員の初任給が60~70円かそこらやどしたさかい、まあ結構なことどした。
母親と私と女中さんも1人置いてもらいました。
祇園を出てから10年の間に娘が1年おきに3人できまして、家族水入らずで暮らしました。
その頃が一番幸せどしたなあ。
世間が金融不況やいうて、旦那はんのモスリン商売もいかんようになってしまいました。
月々送ってくれはる手当もだんだん少のうなりました。
旦那はんの足も遠のいて、しまいにはぷっつり姿を見せはらんようになってしもたんです。
まあそんなこんなで、私は結局祇園町へ戻ることに決心しました。
古巣へ戻るという段になると、そらどんなに悲しおしたか。
「こんにちは」言うて挨拶しても、「帰ってきやはりましたん、ふうん」てなもんどす。
つらいつらいことどすえ。
姉さんの家で店借りしました。
そこには私の他に4人の芸妓はんがいやはりました。
戻って来た新参者どすさかい、私の名札は5番目にかかりました。
祇園町に帰ってきました時、私は25歳どした。
10年も祇園町から離れていますと、だいぶ世の中変ってますわな。
祇園町を出る時には鼻たらしていた子でも、今は先輩として扱わんならしまへん。
戦争が険しゅうなってきた頃、祇園町も店じまいせんならんようになりました。
全国の芸妓さんが、東条英機さんに無理矢理商売やめさせられたんどす。
昭和18年の秋どした。
私ら「東条さんて見たこともない旦那はんに落籍されて、やめんならんてかなわんわあ」言うてました。
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